映画の根本とは脚本。 ~part2
どうも一緒に映画を作りましょう、映画監督の山下武昭です。
ブログを読んだ人がもしかしたら自分たちでも映画を作れるのかもしれないな
と思っていただけたら嬉しいです。
前回の記事がありますのでそちらからどうぞ↓
前回の記事で紹介した橋本忍さんの「複眼の映像」でも書かれているが
脚本はいわば映画の設計図だ。
設計図がズレていては結局のところどんなに撮り方を変えたところで根本がずれているのだから直しようがなくそこは結果的に映像に出てしまう。
いやいや、映画は映像を限られた時間の中に乗せるストーリーなのだから映像の編集でどうにかなるのでは…?
と思う方もいらっしゃるかもしれないが、、、
はっきり言ってまったくそんなことはない。
意図的なカット(この場合のカットは削るという意味)
意図的な時間飛ばし(回想など)
そこで意図的にあくまで編集的なアプローチが脚本に描かれてない以上は
ほとんどがうまくはいかない。
あくまで映像の編集で直せるのは撮ったものであるからなのだし
撮りこぼしがあったり物語やその登場人物やその映画の“穴”がある映像群を編集しても中々その“穴”を映画的な演出のもとに成功できることはほとんど無いと言って良い。
中には、奇跡的に、成功している映画も勿論あるがそういったものをないがしろにしている作品のほとんどが失敗に終わっているといいたい。
脚本とはそれほど大事なものなのである。
ちなみに簡単なイメージだけを言葉にしてそれを脚本として、
それで作られた北野武監督の「あの夏一番静かな海」という映画があるが
(ちなみにこの映画は自分は大好きである)
あれはあれでスジが存在しているため結局は脚本が存在する。
北野監督の中に最終的な編集イメージがすべてそろっていて撮影現場ではその素材を収集している感覚に近いからだ。
大体の映画監督はそうはいかず脚本からいかにこの脚本のスジを生かしつつ映像に演出として伝えるかという部分から出発しているのでそもそも作り方からして違う。
もちろん最終イメージをどうすべきかをイメージしていない監督はいないだろうが脚本のイメージを固めすぎたことによる編集マンのクリエイティブな独自の編集手法などいろいろな映画的な作り方をある意味無視することになるため、諸々モノは考えようである。
自分のこれは肌感覚なのだが
大体の人が映画を見るときも作る時(自主制作映画において)も脚本は軽視されがちなのだ。
勿論そんな事はないという人もわかってはいるのは前提の上で書いている。
例えば
百姓が侍を雇って野武士から村を守る
という歴史的な事実をプロデューサーから聞いてそれを脚本の根本にして書き上げたというのは有名な話で。このエピソードからもわかるように
百姓が侍を雇って野武士から村を守る
という部分がなければ七人の侍は存在しえなかっただろうし、
また登場人物である七人の侍の一人づつの執念ともいえる黒澤監督の人物の彫り込みがなければそこから三時間もある大作映画を十分に満たすことが出来て、人物描写に深みのあるかつアクションエンターテイメントとして成り立つ脚本は不可能であっただろう。
ちなみに
映画を見ていてよく
ん?この話って結局何の話だったっけ?
主人公が何を考えているのかまったくわからんとか…
って、なってしまうのは脚本が物語の根本をおさえきれていないか人物描写が甘いため生じる映画の“ズレ”なのだ。
主題やもしくはそれに伴う人物の掘り下げが不十分なため物語中に出されているキャラクターに齟齬が生じて結果的に伝えたいものが見えずらくなっているかもしくは描き切れていない事が多々あるからだろう。
to be continued →