映画の根本とは脚本。 ~part3
どうも一緒に映画を作りましょう、映画監督の山下武昭です。
ブログを読んだ人がもしかしたら自分たちでも映画を作れるのかもしれないな
と思っていただけたら嬉しいです。
前回までの記事がありますのでそちらからどうぞ↓
こんなことを書くと元も子もないが。。
映画は脚本開発に無作為に時間をかけて納得いくまで書き続けられるわけでない。
当たり前だがそこには締切も存在するし脚本家もまた生活しているため映画プロジェクトが立ち上がった上でお金をもらいその期間中に出せるものを書き上げるしかない。
勿論プロなのだから書き上げるのは当たり前だし、妥協というのを許してくれという事ではない。
これは制作体制と密接に絡んだ文字通り時間との勝負なのである。
時間が映画を縛り付けているように映画の脚本家たちも時間に縛られているのだ。
その勝負を常にしつづけ(昔と今ではもちろん映画に対する認識やお金の動きも違うので一概には言えない)その勝負に対して名作と言われているのを書き上げている脚本家の一例がpart1の記事でも紹介した故橋本忍さんであったり野田高梧でもあるのだ。
ただ映画は当たり前だが映像演出も兼ねている。時にはそこの映画のダイナミックな映像演出や映像効果で観る者を圧倒してシナリオの穴の部分を文字通り吹き飛ばし一気呵成に押し切るような魅力的な映画も存在しているのは確かだ。
はじめに述べたことと矛盾するかもしれない
ただそこが映画の面白い所なのである。
ちなみに自分はそういう作品は大好きだ。
なんだこの意味不明なむちゃくちゃな描写は!となるのは映画ならではの一つの面白さだからである。自分がやるかは置いておいて…笑
映画のそういう演出部分に目が行ってしまいその映画を構成している根本の物語の部分に破たんが生じていないか見る目を養うためには脚本そのものを読んでほしいとは思う。
その視点を持って批判的精神を身につけろ!
とかいうわけではなく
あくまで自分が言いたいのは
映画を見る事の新たな視点の出発点となれたらより幅が広がる可能性があるという事を言っている。
part1でも上げた二冊の本は脚本について書かれた文献だが脚本そのものも、
特別マニアックだったりしない限り最近公開のこの映画のこの脚本が読みたいというのは大体探せば書籍として一般に刊行されている事が多い。
日本映画においてはほとんどが刊行されているし毎月シナリオという雑誌が発行されているので気になったらチェックしてみてほしい。
ちなみに特に黒澤明監督作品の脚本はほとんどが書籍となっているためそれを追いかけてさらに映画を見てみるだけでまた違った楽しみが増えるのだと思う。
脚本を自分なりに分析して映画を見ると自分ならこういうイメージで撮るのに何故この監督はこういう演出をしたのか?
など様々な想いが出てきて構想もできてくる。
そこからもしかしたら自分も作ってみたいという欲が生れてくるかもしれない。
そうなったらなったで一緒に映画を語りたいし作りたい気もするので当方に是非連絡してほしい笑
そのためにというとおかしいがまずは映画の脚本に触れてほしい
多分初めのうちは面食らうかもしれない。
普通の小説では文字という媒体ですべてを表現しきらなければならないが脚本の場合はその中に含まれている映像にはならない描写はほとんどの場合そぎ落とされ普段小説に慣れている人が読むと短い上に非常にタンパクで何を伝えたいのかさっぱりだと思うかもしれない。
脚本はそもそも単なる読み物ではなくあくまで映画というものにする時の設計図だからだ。
ただ先にあげたような橋本忍さんの脚本などはそれ自体がもはや芸術の域に達しているほどの名作傑作名著である。
自分は砂の器の脚本を読んだ時思わず映画本編とは違う感動の涙が出てきてしまった。
脚本を何作か読んで行けばおのずと脚本の読み方やコツなどはつかめると思う。
自分なりに映像と人物の内面のイメージが出来さえすればそれが脚本を文字通り理解したことにつながる第一歩だと自分は思っている。再三書くが、なぜならその脚本自体が映画の完成形ではなくあくまでも設計図なのだからだ。
それを続けて行くと映画の映像的演出の他にも、
話は良いのにこの演出はこの映画には合ってないだろ、とか…逆に
監督独自の演出が逆に脚本と相互効果を生んで本当に面白い部分が見えたり
ここはカットした方が話は伝わりやすくなるのになど、
映画の別の視点から楽しめる感性が養えたりもする。
そうするともしかしたら自分が今まで演出しか気になってなかった部分もわかるし物語の面白さをつかめるようにもなったりする…かもしれない。
ただ少なくとも
映画は本当に多面的で奥が深く本当に面白い媒体だと感じることが出来るだろう。