宮崎駿監督が映画を作る上で大事にしている四つの事 ~part2
どうも一緒に映画を作りましょう、映画監督の山下武昭です。
ブログを読んだ人がもしかしたら自分たちでも映画を作れるのかもしれないな
と思っていただけたら嬉しいです。
ブログを書く前に一言
取り乱しました
前回は宮崎駿監督が大事にしている二つを紹介しました。
三つ目は「お金が儲かる事」
これを初めて知った時、自分は正直意外だと思いました。
でも先にあげた二つの内容を現実的に補完する内容でもあるように思いました。
お金が儲からなければスタッフのためにならないし、その生活がかかっている
結局はお金が儲かることによって現実的にたくさんの人たちに見てもらえるのだし
その人たちを満足させたという一つの指標にもなる。
作品自体がきちんと価値を持ったという功績になるしその後の展開も動きやすくなる
お金が儲かる事自体はクリエイターにとって敵対視するような事ではないという。
お金のために自分自身を売るという事ではなく意味のある作品作りの中にきちんとした
現実的に儲かるという事を踏まえて動き出すというのは非常に大事な事
アイデアをそれだけ形にするというのは現実としてどれだけのリスクをその作品に対して背負わなければならないのかを考える
そのアイデアを形にするのも辞めるのもそのクリエイター次第なのだしなによりそのクリエイターでしか最終的にはその作品制作に対して待ったをかけることはできないのではないでしょうか
待ったをしないためにその作品がどれだけ儲かるかを考えて作り出す
そのために必要な事としてクリエイタ―が考えるべき事なのだと思います
四つ目は「楽しい事」
楽しさが無ければ作れない。
でもこれって忘れちゃうことも多い
正直先にあげた大事な事三つ
これを考えてるうちに自分が本当に作りたくてわくわくするものってなんだったっけ?
って見失うことも多いのが事実だし
楽しさを保ち続けながら何かを作り出すのって本当に中々難しい
でもこの楽しさ、わくわくこそがクリエイターがやる上での最大限のモチベーションなのではないでしょうか?
そしてこの楽しさとわくわくはモチベーションだけでなく
見てくれた人に必ず伝わるんですよね
伝わらない楽しさは無い
これなんです
伝わらない楽しさは無い
自分は普段サッカーはみません
ですけど何故かワールドカップは見るんですよ
理由は
楽しそうだし、見てみると結果は楽しいからw
にわかファンなのでサッカーについては何も言うところはないのですが
ただ
志の高い低いなどというのは
楽しさの中では割とどうでもよいことで
楽しいことって結局はその動機とかうやむやになって
だって楽しいんだモン!!って事なんだと思うんですよね
子供のころに例えば遊んでいて一つ一つの面白さの意味を考えて遊んでいた人ってほとんどいないと思うんですよ
それがなんで楽しいのか?なんてのを応えられるのはほとんどが跡付けで説明しているだけ
でもこの楽しさこそが本当の意味の面白さ、作るべき事、お金が儲かる事に直結する
結局楽しくなければ作る意味もないって事だと思います
面白い事を面白くする事、何のために作ってそれをどうお金を儲からせるのか
それが楽しい
それこそを楽しんでしまえば良い
そのどれかをやるために楽しめさえすればよい
人生も楽しくなければ意味がないですね
急に人生に置き換えましたが
誰かの人生に影響を結果的に与えるのだしその楽しさを一緒に分かち合わせる人を作るという意味でもクリエイターが根本的に楽しむというのは大事なのだと思います
だから作り出すことを楽しもう!
宮崎駿監督が映画を作る上で大事にしている四つの事 ~part1
どうも一緒に映画を作りましょう、映画監督の山下武昭です。
ブログを読んだ人がもしかしたら自分たちでも映画を作れるのかもしれないな
と思っていただけたら嬉しいです。
ブログを書く前に一言
はい、取り乱しました失礼しました。
先日、本で気になる部分がありました。
宮崎駿監督が映画作りにおいて大事にしている事の四つでした。
これは映画監督だけでなくクリエイターなら誰もが心がけなければならないと思われる言葉でしたので紹介していきたいと思います。
一つは「面白い事」
これはまあ作る人なら当たり前というか
あえてつまらない事をしようと思って面白さを狙うならまだしも
じゃあどれだけの人に面白いと思ってもらえるのかはまたむずかしいですね
とはいいつつそれが本当に面白いかどうかは結局の所クリエイターが本当に自分で面白いと思って作っているのかにかかっている気がしています。
何故かというと
作るモノが面白いかどうかは最後まで分からない
当たり前の事ですけどこれその通りなんですよね
作ってみて初めて面白いかどうかわかる
だからその面白さ事態を常に自分が信じ続けられるかどうかに常にかかっている
クリエイターはその責任を感じなければならないという意味でもやっぱりこの面白い事というのは非常に大事な事なんだろうなって思いますね。
当たり前の事をどれだけ当たり前にできるかはどの分野においても変わりはないという事でもあり
自分なりに見て面白いと信じ続けられるかどうか、そしてそこに客観性を持たせるかどうかはまさにクリエイター次第
一口に客観性って言っても千差万別だしどれだけ客観性を持とうと思ったところで
一人だけで持てる力は限られている
自分が考えている以上の客観性を持たせるためにはいろいろな人との関わり合いがどれだけそのクリエイターにあるかどうかも試されているとも言えますね
ついつい作る時には自分の世界観にこだわりがちになり
独りよがりすぎるものになりがちでそれはモノを作る人全員が一度は経験していることではないでしょうか?
それはそれでよいのですしそれを通すべきだと思いますが
出来るだけ広い視点で物事を捉えつつ
そこに自分だけのテーマを見つけて伝えて行く
そこに信じられるほどの面白さがあればおのずと面白いものはついてくる
っと解釈しています。
二つ目は「作るべき事」
作るべき事ってつまり作る意味があるかどうか?
それは誰かのためにモノを作るのと同じだと思います
その面白さって誰のために作ってるの?
なんのために作ってるの?確かに面白いかもしれないけど
誰も見てくれないならそれは作る意味に値するものなのか?
っていう問いだと思います。
この問いに対して勿論
いやいや
そんなものいらん、俺は俺の好きなように作って俺が自己満足するためだけに作るのだ!
そういう主張もわかります。
まあこれって
アーティストなのかクリエイターなのかによってこの答えは違ってくるのだと思います
究極のアーティストなのであれば本当に我が道を突き進み兎に角誰の為でもなく作って完成した時がその創り出したものの完成形なのだと
ちなみにアーティストに限らずそういうクリエイターも中には存在してもいいと思います
これはクリエイターなら一度は言ってみたい言葉ではありますよね
ただクリエイターとして、自分が作り出すものが一体誰のためになるのかは自分自身で考えて作ろう
って言う事だと思います
それは結果的に面白さを追求する事にもつながるし自分自身の好みとは別にやらなきゃならない事が出てくるかもしれませんし
それはもしかしたらめんどくさいし作る上で嫌な事かもしれません
ただそれが作るためのものであるならばやるべき事でもあるのではないか
と思います
自分の好みとは別に自分の作りたいものが存在してくることによってその作品が自分以外の誰かのために存在するものになる。
結局は誰のためになるかは想像でしかないのかもしれないですが
ただそれを考える事によってそのクリエイターにとって根本的に自分が作り出したものが喜ばれるという一番の可能性をはらんだものになる
自分が作ろうとしているものは一体誰のために作ろうと思うのか
一度考えてみることによって面白さと同時に自分が作るものの責任を感じる事が出来る
それを踏まえたうえで作品制作に取り組む
クリエイターとしての自分の姿勢はなんなのか
これから生み出すものがどういう意味合いを持って生み出されて欲しいのかを提示する
それは生み出したうえでじゃあご勝手にというわけではおさまらない
それだけの影響力を持っていることを自覚することにもつながってくるのだと思います
つまり
この自覚こそがクリエイターにとって一つの指標、ものさしになるのだと思います
to be continued →
映画の根本とは脚本。 ~part3
どうも一緒に映画を作りましょう、映画監督の山下武昭です。
ブログを読んだ人がもしかしたら自分たちでも映画を作れるのかもしれないな
と思っていただけたら嬉しいです。
前回までの記事がありますのでそちらからどうぞ↓
こんなことを書くと元も子もないが。。
映画は脚本開発に無作為に時間をかけて納得いくまで書き続けられるわけでない。
当たり前だがそこには締切も存在するし脚本家もまた生活しているため映画プロジェクトが立ち上がった上でお金をもらいその期間中に出せるものを書き上げるしかない。
勿論プロなのだから書き上げるのは当たり前だし、妥協というのを許してくれという事ではない。
これは制作体制と密接に絡んだ文字通り時間との勝負なのである。
時間が映画を縛り付けているように映画の脚本家たちも時間に縛られているのだ。
その勝負を常にしつづけ(昔と今ではもちろん映画に対する認識やお金の動きも違うので一概には言えない)その勝負に対して名作と言われているのを書き上げている脚本家の一例がpart1の記事でも紹介した故橋本忍さんであったり野田高梧でもあるのだ。
ただ映画は当たり前だが映像演出も兼ねている。時にはそこの映画のダイナミックな映像演出や映像効果で観る者を圧倒してシナリオの穴の部分を文字通り吹き飛ばし一気呵成に押し切るような魅力的な映画も存在しているのは確かだ。
はじめに述べたことと矛盾するかもしれない
ただそこが映画の面白い所なのである。
ちなみに自分はそういう作品は大好きだ。
なんだこの意味不明なむちゃくちゃな描写は!となるのは映画ならではの一つの面白さだからである。自分がやるかは置いておいて…笑
映画のそういう演出部分に目が行ってしまいその映画を構成している根本の物語の部分に破たんが生じていないか見る目を養うためには脚本そのものを読んでほしいとは思う。
その視点を持って批判的精神を身につけろ!
とかいうわけではなく
あくまで自分が言いたいのは
映画を見る事の新たな視点の出発点となれたらより幅が広がる可能性があるという事を言っている。
part1でも上げた二冊の本は脚本について書かれた文献だが脚本そのものも、
特別マニアックだったりしない限り最近公開のこの映画のこの脚本が読みたいというのは大体探せば書籍として一般に刊行されている事が多い。
日本映画においてはほとんどが刊行されているし毎月シナリオという雑誌が発行されているので気になったらチェックしてみてほしい。
ちなみに特に黒澤明監督作品の脚本はほとんどが書籍となっているためそれを追いかけてさらに映画を見てみるだけでまた違った楽しみが増えるのだと思う。
脚本を自分なりに分析して映画を見ると自分ならこういうイメージで撮るのに何故この監督はこういう演出をしたのか?
など様々な想いが出てきて構想もできてくる。
そこからもしかしたら自分も作ってみたいという欲が生れてくるかもしれない。
そうなったらなったで一緒に映画を語りたいし作りたい気もするので当方に是非連絡してほしい笑
そのためにというとおかしいがまずは映画の脚本に触れてほしい
多分初めのうちは面食らうかもしれない。
普通の小説では文字という媒体ですべてを表現しきらなければならないが脚本の場合はその中に含まれている映像にはならない描写はほとんどの場合そぎ落とされ普段小説に慣れている人が読むと短い上に非常にタンパクで何を伝えたいのかさっぱりだと思うかもしれない。
脚本はそもそも単なる読み物ではなくあくまで映画というものにする時の設計図だからだ。
ただ先にあげたような橋本忍さんの脚本などはそれ自体がもはや芸術の域に達しているほどの名作傑作名著である。
自分は砂の器の脚本を読んだ時思わず映画本編とは違う感動の涙が出てきてしまった。
脚本を何作か読んで行けばおのずと脚本の読み方やコツなどはつかめると思う。
自分なりに映像と人物の内面のイメージが出来さえすればそれが脚本を文字通り理解したことにつながる第一歩だと自分は思っている。再三書くが、なぜならその脚本自体が映画の完成形ではなくあくまでも設計図なのだからだ。
それを続けて行くと映画の映像的演出の他にも、
話は良いのにこの演出はこの映画には合ってないだろ、とか…逆に
監督独自の演出が逆に脚本と相互効果を生んで本当に面白い部分が見えたり
ここはカットした方が話は伝わりやすくなるのになど、
映画の別の視点から楽しめる感性が養えたりもする。
そうするともしかしたら自分が今まで演出しか気になってなかった部分もわかるし物語の面白さをつかめるようにもなったりする…かもしれない。
ただ少なくとも
映画は本当に多面的で奥が深く本当に面白い媒体だと感じることが出来るだろう。
映画の根本とは脚本。 ~part2
どうも一緒に映画を作りましょう、映画監督の山下武昭です。
ブログを読んだ人がもしかしたら自分たちでも映画を作れるのかもしれないな
と思っていただけたら嬉しいです。
前回の記事がありますのでそちらからどうぞ↓
前回の記事で紹介した橋本忍さんの「複眼の映像」でも書かれているが
脚本はいわば映画の設計図だ。
設計図がズレていては結局のところどんなに撮り方を変えたところで根本がずれているのだから直しようがなくそこは結果的に映像に出てしまう。
いやいや、映画は映像を限られた時間の中に乗せるストーリーなのだから映像の編集でどうにかなるのでは…?
と思う方もいらっしゃるかもしれないが、、、
はっきり言ってまったくそんなことはない。
意図的なカット(この場合のカットは削るという意味)
意図的な時間飛ばし(回想など)
そこで意図的にあくまで編集的なアプローチが脚本に描かれてない以上は
ほとんどがうまくはいかない。
あくまで映像の編集で直せるのは撮ったものであるからなのだし
撮りこぼしがあったり物語やその登場人物やその映画の“穴”がある映像群を編集しても中々その“穴”を映画的な演出のもとに成功できることはほとんど無いと言って良い。
中には、奇跡的に、成功している映画も勿論あるがそういったものをないがしろにしている作品のほとんどが失敗に終わっているといいたい。
脚本とはそれほど大事なものなのである。
ちなみに簡単なイメージだけを言葉にしてそれを脚本として、
それで作られた北野武監督の「あの夏一番静かな海」という映画があるが
(ちなみにこの映画は自分は大好きである)
あれはあれでスジが存在しているため結局は脚本が存在する。
北野監督の中に最終的な編集イメージがすべてそろっていて撮影現場ではその素材を収集している感覚に近いからだ。
大体の映画監督はそうはいかず脚本からいかにこの脚本のスジを生かしつつ映像に演出として伝えるかという部分から出発しているのでそもそも作り方からして違う。
もちろん最終イメージをどうすべきかをイメージしていない監督はいないだろうが脚本のイメージを固めすぎたことによる編集マンのクリエイティブな独自の編集手法などいろいろな映画的な作り方をある意味無視することになるため、諸々モノは考えようである。
自分のこれは肌感覚なのだが
大体の人が映画を見るときも作る時(自主制作映画において)も脚本は軽視されがちなのだ。
勿論そんな事はないという人もわかってはいるのは前提の上で書いている。
例えば
百姓が侍を雇って野武士から村を守る
という歴史的な事実をプロデューサーから聞いてそれを脚本の根本にして書き上げたというのは有名な話で。このエピソードからもわかるように
百姓が侍を雇って野武士から村を守る
という部分がなければ七人の侍は存在しえなかっただろうし、
また登場人物である七人の侍の一人づつの執念ともいえる黒澤監督の人物の彫り込みがなければそこから三時間もある大作映画を十分に満たすことが出来て、人物描写に深みのあるかつアクションエンターテイメントとして成り立つ脚本は不可能であっただろう。
ちなみに
映画を見ていてよく
ん?この話って結局何の話だったっけ?
主人公が何を考えているのかまったくわからんとか…
って、なってしまうのは脚本が物語の根本をおさえきれていないか人物描写が甘いため生じる映画の“ズレ”なのだ。
主題やもしくはそれに伴う人物の掘り下げが不十分なため物語中に出されているキャラクターに齟齬が生じて結果的に伝えたいものが見えずらくなっているかもしくは描き切れていない事が多々あるからだろう。
to be continued →
映画の根本とは脚本。 ~part1
どうも一緒に映画を作りましょう、映画監督の山下武昭です。
ブログを読んだ人がもしかしたら自分たちでも映画を作れるのかもしれないな
と思っていただけたら嬉しいです。
映画を作る上で大事な事がある。
とても大事な事
シナリオ
つまり脚本だ。
これは映画の骨である、血でもある。ここから数ある名作映画が生れて行く。
つまり映画の土台であり設計図だ。
予め言っておきたいのだが、自分は脚本の先生でもなければ脚本家でもない。
あくまで脚本に対する持論とその概念的な話を思いつくままにここに記すつもりだ。
脚本についての表現技法等については巷で売られている脚本の解説書なりなんなりを読めばそちらの方がよいと思う。
下記に二つほど脚本に関しての名著を紹介しておく
一つは先日亡くなられた日本の名脚本家橋本忍さんの「複眼の映像」だ。この本は映画業界ではとにかくすべての人がおそらく読んでいるぐらいの名著なのでぜひ映画ファンや映画に興味ある人で読んでいない人がいれば読んでもらいたい。
そこに描かれているのは黒澤明監督との魂の記録でもあるし脚本にかける魂の記録が記されている。脚本家としての姿勢でもありそれこそが橋本忍さんの生き様だ。
もう一つは野田高梧の「シナリオ構造論」
橋本忍さんは聞いたことあるけどこの人は誰?っとなる方も多いと思うが、東京物語で有名な小津安二郎監督作品の脚本を数多く書かれた方である。自分なりに言えば橋本忍さんが動ならこちらは静である。どちらが優劣ではなくどちらもトップである。日本映画の脚本家のバイブル的本で日本で脚本について書かれてある本の最古参の本であろうと思う。
脚本についての構造分析から一体脚本とは何ぞや?という哲学的問いに関してのアプローチも記してある。自分はゴジラVSメカゴジラ等で有名な脚本家三村渉さんにこの本を紹介してもらい三村さん自身もこの本で勉強した。ご本人談であるので確実だ。
http:// http://amzn.asia/d/dDyzrKY
ありとあらゆる監督や脚本家が頭を悩ませ四苦八苦して
苦渋の努力の末生み出すものと言ってもいいこの脚本。
脚本が無ければ映画は作れない
脚本の存在なくして映画は無いと言ってもいいと思う。
どんな映画にも脚本、シナリオが必ず存在する。
映画と呼ばれるものなら尚更だろう。
ちなみに脚本を
映画の英語のタイトルクレジット表記で言うとscreenplay
たまにwritten byと英語タイトル表記で表示される場合があるが
それの違いについては下記のブログが参考になると思うのでリンクを
僭越ながら勝手に貼っておく。
そして
この脚本について映画をちょっと勉強したことがある人なら誰でも聞いたことがあると思う
「どんなに名匠の監督でも良い脚本が無ければ良い映画は絶対に作れない」と。。。
to be continued →
そもそも自主制作映画って何? ~part2
一緒に映画を作りましょう。
どうも映画監督の山下武昭です。
これを読んだ人がもしかしたら自分たちでも映画を作れるのかもしれないな
と思っていただけたら嬉しいです。
というより絶対できます。
少なくとも作りたい、そこに参加したいという意志さえあれば。
先日の記事からの続きになります。
下記↓part1
自主制作映画はその性質上このいわゆる“武道館レベル”の映画とは違う楽しみ方が存在しているという事だ。これは本当に楽しいだろうし夢もある。
自主制作映画は観客との距離がものすごく近い、制作スタッフやキャストに有名人がつくことは稀だしお金もないため(どれくらいの範囲を“お金がある”とするのかはピンキリ)上映規模も限られている。上映規模も限られているのだから上映回数も少なく映画祭で上映されたり各種イベント等でお披露目されることがあるくらいだろう。そもそも関係者でもない限り目にすることは稀なのかもしれない。
自主制作映画を見るためにはそういうものにアンテナを随時はらなければならない事は事実だ。その労力を踏まえて行く必要があるかと言えば
自分はあると思う。
なぜならこの時に大体映画の制作者はその場にいるし簡単に話せるし、気に入った作品や監督や出演者がいればその場で交流を深める事も可能だろうと思う。
単なる映画の話をされることすらも喜ぶはずだ。
なにせ大好きな映画を語れて尚且つ自分の作った作品が上映されてかつ見に来てくれた人たちには本当に感謝の念しか制作者たちは湧いてないからだ。
この感覚を多くの人に少しでも触れてほしい。もしその時に出来る事なら、何が出来るかわからないですけど映画を作りたいと思いました。とでもいえば制作者は本当に喜ぶと思う。
人見知りなんで、という人も大丈夫だと思う
そもそも映画好きの制作者たちが映画を作っているのだから共通言語は映画という媒体で話が通じるし、映画を知らなくても率直な感想というのは本当に嬉しいものだ。
真面目に映画を見てくれてつまらないあそこは気に食わなかったでもいいと思う。
その言葉こそ見てくれた事の愛でしかないからだ。
映画を作るというのは映画を見るという体験とは別次元の喜びと高揚感に満ち溢れている。
勿論、映画を見ることを見下しているつもりは毛頭ない。
自主制作映画を作ろうと思い立てば、誰でも作ることは可能だといいたい。
しかもそこには特別な運動能力などいらない。そこに参加して楽しんでみる、それさえ根底にあれば絶対に作れる。
誰しもオリンピックのマラソンランナーみたいに走れと言われたらほとんどの人が不可能だと答えるだろうがただ走ってと言われたら多くの人は走れるもしくは走るってこと自体は早い遅い上手い下手に関係なく少なくともイメージは出来るはずだ。
走り出すにはただ走ればよく、自主制作映画を作るにはまずはただ作ればいい。
自分がそもそも作れなければ、作る場所に作る仲間たちの中に参加すればいい、動いて行った先に自分の持っているその役割はおのずと見えてくる。
役割さえ見えれば後は自分がそこで何をすればよいのかも見えてくるはずだ。
勿論事前に徹底的にどういう役割があるのかを調べるのも良いだろうしそれは人それぞれだと思う。
本当に決まったやり方なんていうのは存在しない、映画はクリエイティブなものであるしそうでなければならないと思う。
ただ
映画作りはチーム戦だ、それぞれがそれぞれの役割がありそれをやり遂げる。
そこで大事なのは面白い作品を作りたいという思いと楽しむという心があれば良い。
その気持ちを持って作れば大変な事があっても絶対に後悔はしないはずだ。
自主制作映画には夢があると言った。
それは、作品が世界のどこまででも広がる無限の可能性を秘めている事だ。
自分たちの作った作品が日本だけでなく海外の映画祭で上映されることだって不可能ではない。
本当にみんなが一丸となって一つの目標に進めばその作品が面白くないわけがないからだ。
自分が関わった紛れもない映画が自分だけでは想像もできなかった場所で上映され、そこに来た人たちと交流できるかもしれない。作品や映画を介してそれを超えた人と人のつながりを体感出来るかもしれない。
その時、自分の可能性は無限大で自分が歩んできた人生が本当に意味のあるものだったと理解できるに違いないと感じとれるはずだ。
宗教じみているかもしれないがこれは本当にそう感じると自分は確信している。
絶対に映画はそれだけの力を持っている
だからこそ映画を見ることも作ることもやって欲しいと思う。
自分が制作した作品の当事者としてスクリーンに映し出された映画を観たときに本当に感慨深い感情が沸き起こってくるに違いない。
そもそも自主制作映画って何? ~part1
一緒に映画を作りましょう。どうも映画監督の山下武昭です。
前回までの長編映画企画のお話とは少し脱線して書きたいと思います。
これを読んだ人がもしかしたら自分たちでも映画を作れるのかもしれないな
と思っていただけたら嬉しいです。
というより絶対できます。少なくとも作りたい、そこに参加したいという意志さえあれば。
前に自主制作映画の仲間を集めるうえで一つ気になった事がある。
自主制作映画って作った事が無いからわからない。
自分にとってはその質問がまったく理解できなかった。
そもそも自主制作映画って何?という事も聞かれたように思う。
映画はみんながイメージできる映画というジャンルが存在している。
映画ってどんなもの?っと聞けばイメージできるものが誰しもあるはずだと思う。
(と自分は認識している)
映画を文化もしくは芸術と言ってもいいかもしれないし映画スターの名前をあげる人がいるかもしれないしスタッフの名前、印象的な場面を思い浮かべたりするかもしれない。
自主制作映画は何という話だが
自分たち周囲の仲間たちを集めて映画という共通の時間芸術の表現技法を用いて
スクリーンに映し出すための映像作品を作ろうよ、という意味なのだが
スクリーンと言ったのは必ずしも映画館のスクリーンではなくスマホのスクリーンでもパソコンのスクリーンでもよい。
それがいわゆる映画を作ってみたいと考えたことも無い人にはそういう気持ちすらわからない場合が多い。
ここで嘆きたいのが
映画好き、めちゃくちゃ映画を見ているファンでさえ自主制作映画の存在すら知らない、またはどんなものなのか興味すらない人もいてそれはそれで非常に悲しい。
みんな作ってみよう、本当に作ろうとした時にどれだけ映画が面白いものなのか別の視点から見ることが出来るから。。
っとまでは要求しないがせめて暇な時にでもちょっとどういうものなのか興味を持ってほしいと思っている。
そもそもじゃあどこで見ればいいのか?っというのは後で説明する。
当たり前の話なのだが、初めから武道館ライブを出来る強力な事務所に所属していて豪華な宣伝や多数の固定ファンがいるインディーズバンドはいない。
音楽業界に詳しい訳ではないのでいるかもしれないがいたとしても少数だろう
インディーズバンドなのだからそういったところを目指してはいるのかもしれないし、いないのかもしれない、それはバンドごとアーティストごとそれぞれだと思う。
ただなんとなくこの辺りの物差しは誰でもわかる事だと思う。
しかし、映画というのを持ち出した時にみんながイメージするのは大体が東京ドームや武道館でかかっているレベルの映画群たちなのである。
それは、例えばハリウッド映画や日本のバラエティ番組で出演しているレベルの俳優さんとかアイドルが出ている映画だと言っても差支えないだろう。
それはそれでいいと思うし、そこにまったく異論もない。
観客が作り手側の視点に立って作品を見てほしいというわけでもない。
映画に対して自分が当事者意識を持った時に映画というのはまた別の世界の生き物の様相を呈してくる。
勿論ファンとしてあの映画やこの映画を応援しているというのはあるだろうし自分なりの愛し方をしている人たちを批難しているつもりは全くない。
ただ。。。
to be continued…→